小学校の1年生になった私は相変わらず馬の絵ばかり描いていました。毎日のように騎手がまたがって疾走する馬の絵を何枚も描くのです。おかげで私は今でも走る馬の絵を何も見ずにさらさらと描けるという特技を持っているほどです。
春になってもタニノムーティエの快進撃はとどまるところを知らず、弥生賞、スプリングステークスを連覇します。今ではこの両方のレースを使うことなど1流馬のすることではありませんが、当時は割とふつうに見られたことでした。
そして、いよいよ三冠レースの第一弾「皐月賞」を迎えます。余談ですが、この年はタニノムーティエの他に毎日杯を制したタニノモスボローという馬も皐月賞に出走しています。同じオーナーブリーダーの所有馬が2頭も重賞を勝ってクラッシックに出走するという今ではあまり考えられない快挙です。さらに余談ですが、この馬には現在活躍中の福永祐一騎手の父親である福永洋一騎手がまたがっていました。この人は元祖天才ジョッキーといわれたほどの騎手でしたので、この馬もそこそこ人気をしていました。
当日は重馬場でした。差しや追い込みの馬には明らかに不利です。しかも舞台は中山。ただでさえここの小回りは先行有利、つまりライバルのアローエクスプレスに有利です。
スタートして、いつもより幾分早めに仕掛けたタニノムーティエと安田伊騎手は、アローエクスプレスの外から襲いかかりました。予想外にしぶといアローでしたがタニノムーティエが頭差押さえたところがゴールでした。
こうして第一関門である皐月賞を制したタニノムーティエは、つづくNHK杯へ駒を進めます。軽いケガで十分な調教ができず、おまけに騎手が200のハロン棒とゴールを間違えるという今では考えられないミスのせいもあって、ここで初めてライバルの後塵を拝することとなります。テレビで見ていた私は好きな馬が負けるというショックを初めて味わったのです。憂鬱な日が何日か続いたのを今でもはっきりと覚えているほど大きなショックでした。

その年は、いわゆる万博の年でした。京都の街は空前の友禅好景気で、父母ともに友禅職人であった我が家にも、ついにカラーテレビがやってきました。「これでダービーをカラーで見れる!」と小学校1年の私は歓喜の渦中にいました。おかしな子供です。
そして当日。今よりも東西の対決ムードが高かった時代でしたから、レース前は大変な盛り上がりでした。はじめてカラーで競馬を見た私は、あの騎手服がこんなにもカラフルで美しいものだと知りました。そして、私の応援し続けているタニノムーティエは初夏の日差しをうけてまぶしいほど黄金色に輝き、鞍上の黄色に水色の勝負服と相まって他のどの馬よりも美しく見えたのでした。
レースでもその輝く姿は、いつものように大外を通り、すがるダテテンリュウを押さえて真っ先にゴール板を通過しました。2冠馬となったのです。
私はこのレースを死ぬまで忘れないと思っています。私を競馬というすばらしい世界へ導いてくれたタニノムーティエという馬と共に。
そしてこのあと私は、もっと深い競馬のドラマを知ることになるのです。